嵐山の竹林を抜け、観光客が集う賑やかな通りから一本外れたところに、その館はあった。ひっそりと佇むその場所を訪れたのは、まったくの偶然だった。オルゴールの音色が流れる博物館があると聞き、なんとなく立ち寄ったに過ぎない。しかし、館の扉を開いた瞬間、私は不思議な異世界へと迷い込んでしまった。
奇妙な紳士との邂逅
館の中に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、一体の巨大な人形だった。真っ白な顔に赤い唇、片眼には金縁のモノクルが輝いている。小さなシルクハットをちょこんと乗せ、片手にはステッキ。もう一方の手には細長い葉巻をくわえていた。
「ようこそ。」
もちろん人形はしゃべらない。しかし、その目はじっとこちらを見つめているようで、私は思わず挨拶を返しそうになった。館の管理人が近づいてきて、彼の由来を説明してくれた。
「これは、フランスの古い自動人形(オートマタ)をもとに作られた特注品なんです。月の紳士をイメージしたデザインで、実際に動くんですよ。」
私はしばらくその言葉を飲み込めなかった。動く?
「見てみますか?」
管理人がスイッチを入れると、人形はゆっくりと動き始めた。片方の目をウインクしながら口元をゆがめ、ステッキを軽く振る。その仕草は、どこか茶目っ気がありながらも、貴族のような優雅さを備えていた。私は目を奪われ、しばらくその場を動けなかった。

オルゴールの魔法
嵐山オルゴール博物館は、日本でも珍しいアンティーク・オルゴール専門の博物館だ。19世紀から20世紀初頭にかけて作られた貴重なオルゴールが展示され、実際にその音色を聴くことができる。
館内を進むと、どこからともなくオルゴールの音が流れてくる。小さな歯車が回転し、シリンダーが音を奏でる。まるで時間が逆戻りして、19世紀のヨーロッパのサロンに迷い込んだかのようだった。
オルゴールの歴史を辿る展示も興味深かった。スイスの時計職人が偶然生み出したこの小さな音楽装置が、やがて世界中に広まり、王侯貴族の贅沢品として愛された。しかし、レコードやラジオの登場とともに、ゆっくりとその役目を終えていった。
私はひとつのオルゴールの前で立ち止まった。それは19世紀に作られた大きなディスク式オルゴールで、管理人が実演してくれるという。
「これはポリフォン社製のディスクオルゴールです。当時の最高級品ですよ。」
管理人がディスクをセットし、ハンドルを回すと、澄んだ音が流れ出した。
「月の光——ドビュッシーですね。」
音はゆっくりと空間に広がり、まるで銀色の光が部屋の中に降り注ぐようだった。
時を超える音色
私はふと、最初に出会った月の紳士の人形を思い出した。彼はどこか、この館全体を象徴する存在のように思えた。19世紀の優雅さを宿しながら、現代の私たちに微笑みかける。彼はまるで、時間の狭間を漂う案内人のようだった。
嵐山オルゴール博物館は、ただの展示施設ではない。そこには、時間を超えた何かが息づいていた。オルゴールが奏でる旋律は、現代の喧騒を忘れさせ、遠い過去へと誘う。
私は館を出る前に、もう一度月の紳士の前に立った。彼は相変わらず片眼を細め、葉巻をくゆらせながらこちらを見つめていた。
「また来るよ。」
私は小さく呟き、館を後にした。嵐山の竹林に戻ると、そこには観光客のざわめきが溢れていた。しかし、私の耳にはまだ、オルゴールの音が微かに響いていた。
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